百済聖王7年(世紀529年)に仙巖寺毘盧庵地に阿道和尙が仙巖寺を創建し、お寺の名前を海川寺として山の名前を淸凉山と呼んだという。
その後、道詵國師が現在の伽藍の位置に寺を重創し、1鉄仏 2宝塔 3浮図を建てたといわれる。

今でも仙巖寺には 1鉄仏 2宝塔 3浮図が伝われてきている。
その後仙巖寺は、大覺國師義天が仙巖寺の大覚庵に主席しながら仙巖寺を重創し、また天台宗を広く伝えた湖南のお寺の中心になった。

大覺國師重創建図記によると、そのときの重創は、仏殿13、殿閣12、寮舎26、山唵19個所等の膨大な規模で行われたことが分かる。の後、高麗時代での記録は無く、ただし金克己の詞では、静かな修行のお寺と書かれている。

朝鮮前期の仙巖寺に関する記録は、中宗35年(1540年)に一柱門を重修したという記録が唯一である。

仙巖寺も他の寺と同じく壬辰倭亂の時に多くの被害を受け、全ての殿閣が燃え、鉄仏、宝塔、浮図、文殊殿、曹溪門、圊廁だけが残ったという。

その後、仙巖寺は復旧されてなかったが1660年に敬俊、敬岑、文正の3人の大師によって本堂を建てるなど、8年間において目を見張るほどの重修を行った。
しかし、戦争以前の状態に復旧するのは無理であった。

仙巖寺の重創仏事をまとめた方は護巖若休和尚であった。護巖和尚は昇仙橋を含め、圓通殿仏祖殿等を作った。
重創以後、仏殿8、殿舍12、中寮16、山唵13、付属庵として善積庵、道詵庵などがある。
正祖13年(1789年)に正祖が後事がいなかったので、訥庵和尚が仙巖寺圓通殿で海鵬和尚が 大覺庵で100日お祈りをして、

1790年に純祖は人天大福田扁額と銀香炉、双龍門袈裟、金屛風、窯等を仙巖寺に下賜した。純祖22年(1798年)には僧中文音で有名な海鵬展翎が七殿を重創した。

純祖23年(1823年)3月30日 実話で本堂を含めた色々な堂の建物が火に燃えてしまったら翌年から海鵬・訥庵・益宗等が第6重創仏事を行い現在の伽藍の規模を備えた。
そして、山の名前とお寺の名前を又複稱するに至る。朝鮮時代末期には湖南を代表する涵溟太先-景鵬益運-擎雲元奇-錦峯基林等の4大名講伯を排出した。

1919年本末寺法によって、全国のお寺を30本山に指定したとき仙巖寺は全南の4本山の中で指定され順天、麗水、光州地域のお寺を管掌した。

現在の仙巖寺は太古宗の唯一の叢林である太古叢林として講院や禪院で多くの和尚さんたちが修行を行う総合修行道場である。